坂口安吾といえば、『堕落論』。
そんな印象を持っている方も多いかもしれません。
けれど、作品から少し離れて「坂口安吾という人」を見てみると、また違った姿が見えてきます。
豪快な逸話を残した一方で、とてもシャイで繊細だったともいわれる安吾。
妻・三千代と暮らし、晩年には一人息子の父にもなりました。
この記事では、坂口安吾の人物像を中心に、妻・三千代との暮らし、子どもや子孫についてわかっていること、そして人柄が見えてくるエピソードをご紹介します。
作品を書いた人の姿を知ると、これまで読んだ言葉も、少し違って見えてくるかもしれません。
坂口安吾の生涯・代表作・無頼派での位置づけまでまとめて知りたい方はこちらへ。
坂口安吾とはどんな人?まず人物像を簡単に
坂口安吾は、1906年に新潟で生まれ、1955年に48歳で亡くなった小説家・評論家です。
本名は坂口炳五(さかぐち へいご)。
1931年に発表した『風博士』などで文壇に登場し、戦後は『堕落論』『白痴』によって広く知られるようになりました。
太宰治や織田作之助らとともに「無頼派」と呼ばれましたが、安吾の活動は純文学だけに収まりません。
探偵小説、歴史小説、評論、随筆など、さまざまなジャンルを書いています。
「無頼派」という言葉から、奔放で荒々しい人物を想像するかもしれません。
実際、安吾には驚くような逸話がいくつもあります。
でも、それだけで人物像を決めてしまうと、少し違うんですよね。
長男・坂口綱男さんは、父について周囲から「非常にシャイで、注意深い人だった」と聞かされて育ったと語っています。
豪快さ。
繊細さ。
強い探究心。
いくつもの面を持っていたところが、坂口安吾という人のおもしろさなのだと思います。
坂口安吾の妻・三千代とは?
坂口安吾の人生を知るうえで、妻の坂口三千代は欠かせない存在です。
三千代は1923年生まれ。
1947年ごろに安吾と出会い、その後一緒に暮らすようになりました。
安吾の生活には、作品から想像する以上に波があります。
仕事に没頭したり、薬の影響で荒れたり、突拍子もない行動に出たり。
三千代は、そんな安吾のそばで暮らしました。
安吾が亡くなったあとも、「作家・坂口安吾を正しく世に伝える」という思いを持ち続け、作品や資料を守ることに尽力します。
1960年代には、安吾との約8年間の生活をつづった『クラクラ日記』を刊行しました。
文学史の中の「坂口安吾」ではなく、一緒に暮らした妻だからこそ見えた姿が残されています。
安吾を人物としてもう少し近く感じたい方には、気になる一冊かもしれません。
坂口安吾に子どもはいた?子孫についてわかっていること
坂口安吾と三千代の間には、長男・坂口綱男さんがいます。
綱男さんは1953年、群馬県桐生市で生まれました。
写真家・エッセイストとして活動し、のちに坂口安吾についての講演や執筆にも携わっています。
また、安吾の遺品を新潟市へ寄贈するなど、父の文学を後世へ伝える活動にも関わってきました。
安吾が亡くなったのは、綱男さんがまだ幼いころ。
そのため父の記憶はほとんどなく、母・三千代や安吾の友人、担当編集者たちから父について聞きながら育ったそうです。
「坂口安吾の子孫は?」と気になる方もいると思いますが、一般に確認できる公的・信頼できる資料では、長男・綱男さん以降の家族について詳しく公表されている情報は限られています。
そのため、この記事ではプライバシーにも配慮し、公開資料で確認できる範囲までをご紹介します。
派手なイメージだけではない坂口安吾の人物像
坂口安吾には、「破天荒」「無頼」といった言葉がよく似合うように見えます。
けれど、人物像をたどると、それだけではないことがわかります。
とてもシャイで注意深い一面
新聞記事や逸話では、派手な出来事の方がどうしても目立ちます。
でも長男・綱男さんによると、周囲から聞かされた安吾は、非常にシャイで注意深い人物でもあったそうです。
作品では、既成の価値観へ鋭く切り込んでいく安吾。
その強い言葉の奥に、繊細に人や物事を見つめる人がいたと思うと、少し印象が変わりますよね。
興味を持つと、とことん追いかける
安吾は、とても凝り性だったともいわれます。
ひとつのジャンルに興味を持つと、納得するまで調べたり書いたりする。
そしてある程度突き詰めると、また別のものへ関心を広げていく。
純文学だけでなく、歴史、探偵小説、社会批評など多方面へ作品が広がった背景には、そんな強い探究心もあったのかもしれません。
坂口安吾の作品を年代順に見ると、その幅広さがよくわかります。
▶ 坂口安吾の作品年表と代表作まとめ|初心者におすすめの本も紹介
坂口安吾の人柄が見えるエピソード

文学者の人物像は、年表だけではなかなか見えてきません。
安吾には、思わず「本当にそんなことを?」と言いたくなるような逸話が残っています。
ただし、派手なエピソードだけをその人のすべてだと思わず、「こんな一面もあったんだな」と眺めてみるのがよさそうです。
ライスカレー100人前事件
坂口安吾の有名な逸話のひとつが、ライスカレー100人前事件です。
1951年、安吾は檀一雄の家に身を寄せていました。
そのとき、妻・三千代に頼んで、近くの飲食店へライスカレー100人前を注文させたと伝えられています。
実際に三千代が注文へ行ったことも、坂口安吾デジタルミュージアムの資料で紹介されています。
ただ、「なぜ100人前だったのか」は、安吾自身の口から明らかにされていません。
だからこそ余計に、安吾らしい謎めいた逸話として残っているんですよね。
お酒はウイスキーやジン
安吾は酒を飲む人としても知られています。
本人の文章によると、よく飲んだのはウイスキーやジン。
日本酒やアブサンを飲むこともあり、ビールについてはあまり好まなかったようです。
「無頼派=酒豪」というイメージだけで見るのではなく、本人がどんなものを好んだのかを知ると、生活の輪郭が少し見えてきます。
遊びにも夢中になる
安吾は、将棋や探偵小説の犯人当てなどにも夢中になりました。
少年時代から探偵小説を好み、のちには自ら『不連続殺人事件』という本格推理小説を書いています。
好きなものに興味を持つと、とことん追いかける。
そんな性格は、遊びと創作の間にもつながっていたのかもしれません。
「無頼派の思想家」という固いイメージだけでなく、何かに夢中になる人として見ると、安吾が少し身近に感じられます。
妻と息子から受け継がれた「作家・坂口安吾」

坂口安吾は1955年、48歳で亡くなりました。
でも、そのあとも安吾の文学を伝える人がいました。
妻・三千代は、安吾との生活を書き残し、作品が誤って伝わらないよう大切に守りました。
そして長男・綱男さんも、写真や文章、講演などを通して父について語っています。
2005年には、安吾の遺品が新潟市へ寄贈されました。
作品そのものが残るだけではなく、
「この作家は、どんな人だったのか」
という記憶も、家族や周囲の人によって受け継がれてきたんですね。
文学作品は一人で書かれます。
けれど、読み継がれていくまでには、その言葉を守る人たちの時間もある。
安吾の家族について知ると、そんなことも感じます。
坂口安吾と無頼派の仲間たち
坂口安吾は、太宰治や織田作之助らとともに「無頼派」と呼ばれました。
ただし、これは三人が正式に結成した文学グループではありません。
戦後、既成の価値観や道徳を問い直す作品を書いた一群の作家たちに用いられた呼び名です。
坂口安吾は『堕落論』などで価値観そのものを問い、
太宰治は自意識や孤独を深く見つめ、
織田作之助は大阪の庶民や不器用な人間の生活を描きました。
同じ「無頼派」でも、三人はずいぶん違います。
坂口安吾がなぜ無頼派と呼ばれたのか、太宰・織田作との違いや関係はこちらで詳しく整理しています。
▶ 坂口安吾は何派?無頼派作家としての特徴と太宰治・織田作との関係
坂口安吾の代表作を読んでみるなら
人物像を知ったあとに作品へ戻ると、少し違った読み方ができます。
まず安吾の考え方に直接触れたいなら『堕落論』。
物語から入りたいなら『桜の森の満開の下』や『白痴』。
ミステリーが好きなら『不連続殺人事件』もあります。
「こんな人が、この作品を書いたのか」
そんなふうに作家と作品を行き来しながら読むのも、文学の楽しみのひとつなんですよね。
▶ 坂口安吾の作品年表と代表作まとめ|初心者におすすめの本も紹介
『堕落論』をもう少し丁寧に読みたい方はこちらへ。
▶ 坂口安吾『堕落論』をわかりやすく|衝撃的あらすじとは?生きる意味を問い直す
まとめ|坂口安吾は、破天荒だけでは語れない人
坂口安吾には、今でも語り継がれる派手なエピソードがあります。
ライスカレーを100人前注文させたこと。
酒を好んだこと。
何かに夢中になると、とことんのめり込んだこと。
そうした姿だけを見ると、「破天荒な無頼派作家」という言葉がぴったりに思えます。
でも、その一方には、シャイで注意深く、物事を深く掘り下げる人もいました。
妻・三千代と暮らし、晩年には息子・綱男さんの父にもなりました。
人には、ひとつの言葉だけでは括れない面があります。
それは、『堕落論』で建前ではなく現実の人間を見ようとした安吾自身にも、どこか重なるように感じます。
作品を読む前でも、読んだあとでも。
坂口安吾という人を少し知ってからページを開くと、その言葉の向こうにいる人が、前より少し近く見えてくるかもしれません。

